情報というものは残酷なもので、それが人の運命の領域を広げるとともに、狭めもするのだった。この世界にまだ限界というものがあり、生きとし生きるものが死ねば遥かに広がる地の果ての光彩に溶け込んでいき、あるいは天上の光の中に包み込まれていくという世界があり、自分たちの外の世界に住む人々の観念も釈然としなかった時代においては、確かにこの私を取り巻く世界は一つであったのかもしれなかった。今でも世界は多くの世界として存在しているが、この1世紀に起こった通信技術と交通技術の革新は、世界をあたかも別の意味で一つであるかのような状況においやっている。あるいは高度な通信技術と交通技術を所有しうるものたちに一つである世界を見させている。そのような視点から見るならば、事実世界は一つだった。地球の軌道を一つの恒星のように回り続ける衛星は、この地球上のあらゆる地点を網羅し、把握する。私がその衛星と交信可能な機器を有して世界中を移動すれば、衛星は私を捕捉できる。電話回線の整備された彼の地に赴けばその回線を通じて世界中の情報に触れ得る。しかしながら、どのように衛星や通信網が地球上のあらゆる地点に存在する私を捕捉できたとしても、私が歩を進められる範囲は当然のごとくに限られたものなのである。この地に、いまだ前人未到の地があるならば、果たしてそれは人類のものなのか、諸個人のものなのか判別しかねる。
人と人、あるいはものとものとの交信を可能にしているものが、五感によって可能となっているとされているならば、あらゆる交信を司る諸要素は分析され、やがて現実に触れ得ないものに、触れ得る世界が来るのかもしれなかった。例えば遠く離れた肉親と手を取り合って喜んだり、遠く離れた恋人と口付けを交わしたり、といった具合に。
あるものはここで、手を取り合って喜ぶ親子の手にグローブが嵌められていたり、口付けを交わす恋人たちの顔にマスクが掛けられている、といった状況を想起するかもしれない。けれども現在より脳の作用の研究が進めば、身体的、あるいは心的な感覚のすべてが脳内作用から演繹される状況も考えられる。そうなったとき、人は重々しい機器から解放され、簡易な機器を身につけ、あるいはそのような作用を生起させる薬を用いて、遠く離れたもの達と肌を触れ合わせたり、息を吹き掛け合ったりして交感をするのかもしれなかった。けれども確かなことは事実はそうなりえないということである。(1999)
なぜ生きるのか?
この問いへの応えは至極簡単なものである。
人は生きているのではない。単に生かされているのである。
これは、人に限らずすべての生命に当てはまる。完全平等原則である。
例えば人間の場合、10代先祖の数を遡って数えてみると良い。子供のない親は沢山いるが、親のない子供は論理的に不可能である。10代先祖を遡るとき、それは2の10乗という数字になる。さらにその数字に育ての親を含めるなら、その数はさらに大きな数字となる。そして、この命は、そのうちの一人が欠けていても、あなたは今ここにいない。その一人一人にそれぞれの人生と命があった。このことを思うとき、私はいつも泣きそうになる。いただきますと言ってごはんを食さざるを得ない。そして、うまかった、ごちそうさまでしたと言わざるを得ない。
だから、私は活き活きとした時間の中に出来るだけ長く生きなければならない。生活とは本来、そういうものである。われわれには、死んだように生きる余裕時間はないのである。もしあなたが今、困難の中にあり、死んだように生きることを強いられているのなら、あなたは活きるために闘わなければなりません。逃走は闘争の一部です。
今日の内省
出来事はできるだけ単簡に考えましょう。
基本的に、人と人との関係はとても単純なものです。
社会はそのつながりによって構成されています。
宮沢賢治と草野心平は友達でした。
中上健次と柄谷行人は同朋です。
名を残した文学者は呼び捨てにして構いません。例えば、中上とか、柄谷と言っても良いのです。文学者はそんな些細なことを気にしません。却って様をつけると失礼になります。だから作家と言います。家を作った者にしか与えられない栄誉ある称号です。簡単に作家になることは出来ません。副業では決して出来ないものです。作家も職業の一つだからです。それは名誉あることです。そして、あなたはその家の家族になることができます。絶対的に自由に。作家には自分の作った家族を養う義務があります。本当の文学者しか作家にはなれません。
勉強の基本は国語です。極端に言えば、学校に行かなくても出来ます。
現に私は通学制の大学を卒業していませんが、通信制の「大学」で文学士の資格を有しています。私は、この文章を書きながらお金をもらっているので文章を書くプロフェッショナルですが、レベルはハイアマチュアのレベルです。所詮、文士の端くれに過ぎません。私は、そのことをとても恥ずかしいことだと思っています。なぜ、私が通信制の大学を選んだのか、その理由は単純です。学びたい「先生」がいたからが第一。第二に「受験をボイコットする」ことが一つ、「学費がとっても安いこと」が一つ、です。ちなみに私の選んだ「大学」は法政大学通信教育学部文学部史学科です。私の専攻は日本思想史です。英語では ”Intellectual History” と言います。
独学で国語を学ぶためには、とても厚くて価格の高い国語辞典を買う必要があります。例えば、その代表格が広辞苑です。デジタル版を買ってはいけません。耐久性に不安があるからです。本はぶん投げても壊れません。それと検索スピードがデジタル版に比べて、圧倒的に速いです。それ(アナログ広辞苑)は高いですが、一生、貴方を必ず助けるものになります。また、安いもので構いませんのでペンと紙が必要です。あなたの考えを書き留めるものにいまだ、ただのペンと紙に勝るものに私は出会ったことがありません。そして、速記にはひらがながとても強力な武器となります。
このことは他の国の方々の言語を学ぶ際にも同じことが言えます。英語と中国語は比較的簡単に覚えられる言語です。英語を学ぶときはアナログの英英辞典を買います。LONGMANが私のお気に入りです。中国語を学ぶときは漢文を読みます。英語と中国語の文法はとても良く似ていますので、どちらかをマスターすればもう一方も簡単に覚えることが可能です。われわれ日本人は漢字を使いますので、漢文を覚えればいいので楽です。中国では筆談すればよいのですから。
たとえば、私が30年以上前に買った広辞苑のしおりには次の言葉が紹介されています。
「ゆたんぽ」(湯湯婆)「漢字で書くと、湯の字が二つ重なるのはなぜだろうか。中国渡来の道具で、タンポという音もいっしょに伝わってきたが、タンがお湯を指すことが分かりにくいため、わざわざ「ゆ」の字を重ねたもの。「婆」は、老女ではなく妻・女房の意で、暑中に寝るとき涼をとるための「ちくふじん(竹夫人)と同様の発想による名付け方らしい。」
学校に行くのは「先生」や仲間と対話するためです。対話は会話ではありません。「対話」とは、親とこどもの会話に代表されるものです。それは教育と、愛と呼ばれるものを必要とします。それを「非対称」と言います。私はそこで本当の「先生」に初めて出会いました。学ぶことが楽しいと感じた初めての出来事です。
「先生」は教育のプロフェッショナルなので、安心しておまかせしましょう。「先生」にはプロとしての誇りと責任が当然ですが必要です。先生には年齢に関係なく「大人」でなければ、なることが出来ません。職業だからです。職業と仕事は異なります。それを差異と言います。差別ではありません。職業に差別があってはなりません。しかしながら今の「学校」に本当の「先生」は本の僅かしかいません。私の知る限りです。私はそのことを嘆いています。本当の「先生」を見分けることは簡単です。本当の「先生」は「生徒」を決して呼び捨てにしないものです、例えば「春日さん」と呼びます。話し言葉を大切にします。当然ですが、緊張しながら話します。職業の掟として、暴力を使いません。ですから、よく聞けば、ラジオでも本当の「先生」を見分けることが可能です。日本には放送大学というラディカルで優れた大学があることを私たちは忘れてはなりません。放送大学は私立ですが国立大学です。
そして、この文章には日本語として決定的な欠陥があります。
日本語は縦書きが基本です。
だから、私はもう横書きでは日本語を書きません。それは、日本語を母国語とする人にとって恥ずべきことだからです。それを、インターナショナルと言います。
名刺も同じです。なぜこの国の名刺では縦書きが基本なのか?それはとても簡単な理由です。興味を持たれたら探し出してみてください。
余談ですが、痒いときは他者に掌で撫でてもらうと治ります。自分で撫ぜても治りません。寒くて眠れない時は裸で寝ることをおすすめします。そして、深く考えながら眠ることがとても重要です。シベリアに抑留されていた私たちの先人がどうやってその苦難を乗り越えたかを考えてみると良く分かります。想像では分かりません。自国の歴史と母国語を学び、自分で考えることがとても重要です。それを創造と言います。ゴキブリは最古の昆虫と言われています。ゴキブリは石油のなかでも生きることが出来ます。
このごろよく話題に上る「おもてなし」という作法は、日本の偉大なる女性たちが編み出した、世界に誇るべき役務です。だから、旅館の女将なのです。このように職業には女性に向いている職業と男性に向いている職業があります。それを差異と言います。差別ではありません。看護師も基本は看護婦さんが築き上げた職業の一つです。ですから、看護婦さん、と呼ばれることは女性の看護師にとって誇りであることだと、私は考えています。
私には必要ありませんが、私の妻の趣味は御朱印集めです。とても素敵な趣味だと羨ましく思っています。みなさんは、世界的に見て、女性の就業率が最も低い職種をご存知でしょうか?興味があれば見つけ出して見てください。そこにヒントが隠されています。算数と数学は異なるものです。我が国の義務教育では算数から数学の基礎までを教えます。それは生きていくために必要な算術だからです。高校から専門的な数学を教えるのには理由があります。好きな人だけが学べるような仕組みにしてあります。算数と数学の決定的な差異とは何か?これは至極、単純です。0と1の差です。算数は1から始まります。数学は0から始まります。それだけですが、そこに数学の神髄があるのです。
私は、この散文から得られる対価の大半を「NHK歳末たすけあい」運動に寄付します。
この文章は、まだ、文章ではありません。散文です。私の知る限り、我が国に「文章」はたった一つしかありません。それは長い長い間「御文章」と呼ばれ、多くの人を助けています。当然のことですが、「御文章」は無量です。
おしまい。
“locabo.co.jp” still alive here.
Thank you very much for my uncle.
We are here alive because of you.