考える時間は労働時間に含まれるか?Ⅱ

考える時間は労働時間に含まれるか。私の考えでは含まれると考えるのが妥当である。しかしながら、その労働が時給労働や日給労働である場合はどうであろう。おそらく、考える時間は労働時間に含まれない。いや、ここで時間制労働や日給制労働における、考える時間を労働時間に含めないという意見は早急である。実際、私は日雇いのフリーターであるが、考える時間を労働時間に含めている。労働者にとっての雇用形態が時給労働であろうと日給労働であろうと、その職種の差異によって、考える時間を労働時間に含める職種と含めることが困難な職種があると考えることが妥当であろう。いや実際は考える時間を労働時間に含めることが困難な職種などない、と考えるのが妥当であろう。

考える時間は労働時間に含まれるか?

私の考えでは、考える時間は労働時間に含まれる。同時に通勤時間も労働時間に含まれる。

それを報酬化するためには、自己申告制の労働時間を採用するか、完全な自由時間が存在する出来高制の報酬以外にない。

かつて私は、株式会社ロカボという会社で、労働時間の上限を設けた自己申告制の労働時間を採用した。結果的にその試みは3か月で頓挫したが、その原因は自己申告制の労働時間にあるのではなく、モノが売れないことによる資金不足にあった。ロカボのメンバーは、各々が魅力的な商品を世界中から探し出し私に提案を行ってくれたが、私に、それらを売る力が無かった。モノやコトを売る商売の根幹よりも自己申告制の労働時間を実現することが優先された結果だった。本末転倒だったのである。

私には夢がある。この世界から人による人への管理というものが無くなり、個々人が自発的に調和と生産性の向上を目指す笑顔と信頼の輪で結ばれた社会の実現、という夢だ。

だがここで注意しなければならないことがある。人々が自発的に調和と生産性の向上を目指すとき、労働者にとっての労働との疎外が生じる可能性があることを。あるいは多能工の中に、労働の疎外に繋がる危険因子があることを。それを防ぐ知恵がセル生産方式に見いだせる。しかし、セル生産方式、ワークセル生産方式は、生産管理を強化しなければ実現できない。この生産管理をAIが代行できれば、セル生産方式における労働者の士気向上は一層持続され、自発的な生産性の向上を目指す可能性はある。その時、生産管理を行っていた労働者は労働との疎外に直面するだろう。しかして、その疎外からの脱却は、彼がモノやコトを売る現場に直面することで可能となる。

今日の内省

私はこの散文を誰かに向けて書いている。ただし、私にはその誰かが分からない。

先の内省を読むと、これらの散文は誰かしら若い人に書いているような印象を受ける。しかしながら、私はこの散文を若い人に限らず読んで貰いたいと考えている。同時に私は、この散文がまさに自分自身に向けて書かれているような印象を受ける。なぜならこの散文はその題名が意味するように、単に自身の内省にすぎないからだ。これらの内省たる散文の真実は私に対する自己批判である。

私は腹黒い人間である。同時に嘘つきでもある。だがそれが何だと言えるだろう。たとえ私の腹が黒いと言え、その言動に虚言を散りばめると言え、他人から見える私の行動や言葉や作法が善行であれば、私は善行なのだ。なぜなら、私とは、私を含む誰かによって対面する私でしか存在しえないからだ。私とは、私を含む他者から見た私がすべてであり、それ以外の自己はあり得ない。

例えば多くの精神疾患は障害ではない。病ですらない。いや、たとえ障害である精神疾患を含めるとしても、それはすなわち一つの臓器の一部である脳の疾患に過ぎない。脳自体は特権的な臓器ではない。今日は胃の調子が悪いというように、今日は脳の調子が少し悪いと言い得るのだ。そして、体中の筋肉と臓器が疲労するように、脳もまた疲労する臓器の一つに過ぎない。その時、ゆっくりと眠りなさい、という声が聞こえるだろう。

日本国憲法前文と9条及び自衛隊に関する内省

現在の日本国憲法はアメリカによって押し付けられたものであり、この国の独自の憲法ではないという世論が大半となってきている印象を受ける。しかるに自衛隊について考えるとき、自衛隊もまた、アメリカの意向により組織されたものであることが忘れられているか意図的に隠蔽されている印象を受けざるを得ない。現在の日本国憲法が外来のものであれ、また、自衛隊が外来のものであれ、私たちがこの戦後の歴史の中で双方を受容してきたものであることには何人たりとも異論はないであろう。あたかもそれらは、私にかつての神仏習合を想起させる。

私は、幼少のころに日本国憲法前文と第9条を読んだ時の感動を決して拭い去ることが出来ない。そこに書かれている徹底非暴力の闘争は、マハトマ・ガンジーがそうした闘いを続けたように、どんなになぶり倒されようとも丸腰で立ち上がる無抵抗による闘争を思い起こさせる。現在の自衛隊を受容してきた先人の知恵は、同時に現行の憲法を受容してきた先人の意思でもある。このことは、アメリカによる日本支配とは全く別の問題である。私の考えでは、日本国憲法は外来であるが、それとは関係なくすでにわれわれが受容し育んだ独自の憲法に他ならない、というものである。

すべて人は守られている

貴方が今、絶望の中にいて、日々死んだように生きることを強いられているなら、思い出してほしい。すべての人は守られていることを。貴方は暗闇の中にいて、部屋から一歩も出ることもなく、不安をかき消すためにゲームに熱中し、日々繰り返すループの中で無限に続くかと思われる闇を生きているなら、信じてほしい、人はみなすべて守られているということを。必ず光は射す。貴方は、数えきれないほどに開かれた可能性の扉が、自らの前に現れることを、きっと見るときが来る。

等号記号と不等号記号(コンピュータプログラムより)

 論理的に等号記号は対象に対する限定作用を、不等号記号は非限定作用をもっている。前者は閉鎖的であり、後者は開放的である。一般に不等号を多用した文章がその否定にもかかわらず、読み手を解放するかのように感じさせるのはそのためである。事実それは受け手を解放する。(たとえば、老子を想起せよ)。

 等号記号に反して不等号記号は無限に連なって記述する事が可能である。しかし、その場合は対象が欠けているか、もしくは対象と送り手が同一化している。つまり、不等号記号は無限に連なる記述の中においても、なに一つとして自己の立場を限定するものを生み出さない。それは常に逃げ道をもっている。責任を回避する回路をもっている。そして、最後にそのような論理は、不等号を繰り返すこと、つまり非限定を徹底する事が一つの立場を形成するかのような決して負けることのない「不敗の論理」にたどりつく。

それは決着を先送りして絶え間ない運動を積極化する。しかし、現実の運動とは限定の集合であり、最終的に行くか退くかしかない世界である。それは絶えづ関係者に決着を要請するのであって、「不敗の論理」がそこを通過することはない。なぜあなたは好きな人に告白できないのだろう。または、しないのだろう。

 これと同じことは、等号記号に関しても言える。だが、不等号記号が一つの非限定によってそれ以外の全ての限定作用を混乱させることが可能であるのに対して、等号記号は一つの等号によって一つの限定しか生み出すことができない。また、論理の矛盾を越えて無限に連なる限定を繰り返せば、単に送り手は嘘つきと罵られるか、無視されるだろう。それは決して、威厳さえもった「不敗の論理」に行き着くことはない。行き着く前に負けるからだ。

 だが、ここが肝心なのだが、このような「不敗の論理」とは別に、本当に相手を非限定化してしまう不等号記号がある。それは他のものを非限定化することによってそれ以外の全てのものを解放するのではなくて、真に相手を不等号化する。これは、限定的な現実に対する立場であり、またそのような現実のなかでしか機能しえない立場である。そして、これと同時に対象を解放する等号記号が必ずある。それを愛や希望といってもよい。だが、それは単簡であるがゆえに至難である。

My hometown is a life.

I have roots. but I have no root.

Because we didn’t have family name long long time.

My ancients thought our family name is Amida.

I really don’t know why how come our family name is making.

My nationality is Japanese, but my high school friends called me Korean name with kidding. It doesn’t matter, anyway, I didn’t like my first name. So, I would like to name my child for my favorite name “haruhisa” that is meaning rite of spring.

But we don’t have child.

I have married.

But I’m single.

I have wife. So, I love wife, Hisako. But I’m single.

I’m singularity talking and walk. Because Spirit is not Blood.

It doesn’t like a ball and chain. Like the spider net and the line that is drawn by Jumping Bird.

So, I must make family.

Frankly speaking, I’m wondering. So, I’m just writing. I’ve been writing the Nobel, Criticism, Poem, and Music from 14years old.

I love Taiwan. because that woman is there. I loved her.

I love Korea. because that woman is there. I loved her.

I love China. because my old friend is there.

I love Thailand because my old friend is there.

I love Cuba because my old friend is there.

I love France because my old friend is there.

We met at LSU, Louisiana in 1990.

I love U.S. because my brother Lee and teacher are there. I respect for him.

I love Myanmar. because my friend is coming from there.

I love Vietnam because my lovely customer’s home is there.

I love Switzerland. because lovely Mazda roadster, that my parent saw at there.

I so love Brazil. Because Betty and our many friends are there.

So, I love Japan, a lot of life is here.

So, I love space. because my many dear dead lives are there.

In anyway, I like hip. So, I am hippy.

Thanks a lot for your reading.

発端

僕の発端は素朴なものだった。それはおそらく誰でもが感じたことがあるほどの素朴なものだ。素朴な南北問題、素朴な差別問題、素朴な差別、言葉を含めたあらゆる手に取れる形で目の前にある問題だ。彼は資本主義を勉強した。その発端は素朴な南北の格差であり、決して揺るがない安定性を築いた資本の構造の問題だった。けれども今彼の目の前に広がっている研究という名の学問は、高尚な理論と自律性に支えられて奇妙な島国の中で、あるいは社会学者の前方が言うところの島宇宙の中でいっこうに変わらない現実を賢明に説明するにとどまっている。阿呆な批評家や馬鹿な作家があの絶望の貧困と飢餓と抑圧の中からやがて世界に希有の詩人を生み出すという。だがそれがいったいなんだ。この国の端々でこれまた希有な一つの世界がこじ開けられたとしてそれが一体なんだ。若者は島宇宙とかいう概念に説明され、それが肯定的に解釈されたとして、現にこの私の生活を支えている、衣服や食物や住居やこの言葉が、本当に素朴で透明な貝殻のようにぼくを包んでいる世界的な情況と切り放されてなおかつ島宇宙に生存しているか。皆、またいったんは引き寄せて間近に見えるかと思った怪物の姿から神妙に後退して、高い高い塔の上にあがり、町の明かりの明滅を見て感傷に胸を痛めようとしている。ジイはまた塔に昇りそこで生きる。詩を紡ぐ。それを嫌うものたちは直感に過去の意匠の理論をまとって、別の塔の上で決して自分の歩調を乱すことない闘争を演じる。それをまた、一つの生でないと言えないし、どのような言葉によっても批判し得ない。しかし、情況は滝の水のように落下していき、僕の歩調は乱れざるをえない。僕は簡単にやっつけられる。主体や、自由意志を攻撃できるように、理想や世界革命を攻撃できるように。けれどもあの高い塔の上にいる人たちは、まさにその塔を支えている大地に起こっている個々の生を嘗めている。
 人はなぜ、希有な文学の誕生を期待するのか、人はなぜ文学を恐れるのか。なぜ人は希有な政治の誕生を期待するのか、なぜ政治を恐れるのか。
 僕はグローバリズムや理想について一切語らないが、僕につながる世界についてその問題の端々に浮き上がる素朴な問題を解決していくことは出来る。

失われた距離を求めて


KONICA HEXAR : KONICA CENTURIA 400

情報というものは残酷なもので、それが人の運命の領域を広げるとともに、狭めもするのだった。この世界にまだ限界というものがあり、生きとし生きるものが死ねば遥かに広がる地の果ての光彩に溶け込んでいき、あるいは天上の光の中に包み込まれていくという世界があり、自分たちの外の世界に住む人々の観念も釈然としなかった時代においては、確かにこの私を取り巻く世界は一つであったのかもしれなかった。今でも世界は多くの世界として存在しているが、この1世紀に起こった通信技術と交通技術の革新は、世界をあたかも別の意味で一つであるかのような状況においやっている。あるいは高度な通信技術と交通技術を所有しうるものたちに一つである世界を見させている。そのような視点から見るならば、事実世界は一つだった。地球の軌道を一つの恒星のように回り続ける衛星は、この地球上のあらゆる地点を網羅し、把握する。私がその衛星と交信可能な機器を有して世界中を移動すれば、衛星は私を捕捉できる。電話回線の整備された彼の地に赴けばその回線を通じて世界中の情報に触れ得る。しかしながら、どのように衛星や通信網が地球上のあらゆる地点に存在する私を捕捉できたとしても、私が歩を進められる範囲は当然のごとくに限られたものなのである。この地に、いまだ前人未到の地があるならば、果たしてそれは人類のものなのか、諸個人のものなのか判別しかねる。
人と人、あるいはものとものとの交信を可能にしているものが、五感によって可能となっているとされているならば、あらゆる交信を司る諸要素は分析され、やがて現実に触れ得ないものに、触れ得る世界が来るのかもしれなかった。例えば遠く離れた肉親と手を取り合って喜んだり、遠く離れた恋人と口付けを交わしたり、といった具合に。
あるものはここで、手を取り合って喜ぶ親子の手にグローブが嵌められていたり、口付けを交わす恋人たちの顔にマスクが掛けられている、といった状況を想起するかもしれない。けれども現在より脳の作用の研究が進めば、身体的、あるいは心的な感覚のすべてが脳内作用から演繹される状況も考えられる。そうなったとき、人は重々しい機器から解放され、簡易な機器を身につけ、あるいはそのような作用を生起させる薬を用いて、遠く離れたもの達と肌を触れ合わせたり、息を吹き掛け合ったりして交感をするのかもしれなかった。けれども確かなことは事実はそうなりえないということである。(1999)

なぜ生きるのか?

この問いへの応えは至極簡単なものである。

人は生きているのではない。単に生かされているのである。

これは、人に限らずすべての生命に当てはまる。完全平等原則である。

例えば人間の場合、10代先祖の数を遡って数えてみると良い。子供のない親は沢山いるが、親のない子供は論理的に不可能である。10代先祖を遡るとき、それは2の10乗という数字になる。さらにその数字に育ての親を含めるなら、その数はさらに大きな数字となる。そして、この命は、そのうちの一人が欠けていても、あなたは今ここにいない。その一人一人にそれぞれの人生と命があった。このことを思うとき、私はいつも泣きそうになる。いただきますと言ってごはんを食さざるを得ない。そして、うまかった、ごちそうさまでしたと言わざるを得ない。

だから、私は活き活きとした時間の中に出来るだけ長く生きなければならない。生活とは本来、そういうものである。われわれには、死んだように生きる余裕時間はないのである。もしあなたが今、困難の中にあり、死んだように生きることを強いられているのなら、あなたは活きるために闘わなければなりません。逃走は闘争の一部です。