一つの目的に達する為の手段は一通りではない。会社あるいは社会の中では、それは分業と協業という形で行われている。それと同時に、ある一つの事をいうためには、それを述べるために様々な文脈を想定することができる。というよりも、そのような様々な文脈、あるいは「分業」と「協業」の中にこそ「生」があるのではないか。現実に、個々人の労働は単なる目的や手段に還元できない(あるいはそれらを同時に内包する)行為である。つまり生・活そのものである。会社にとっての目的がいかなるものであれ、そこに携わる従業員にとっての仕事というものは、本来的に分業と協業の中にあるのではないのか。それがあたかも、会社の目的そのものが仕事であるというふうに捉える現実は本末転倒しているのではないのか。そもそもそのような一つの目的を措定すること自体が本末転倒ではないのか。
多能工について考えるとき、私はひとり一人にとっての、いや、直接に私にとっての仕事とは何なのか。その拠り所は何なのかという事について考えている。つまり、いま現に私が携わっている仕事とは、何かの目的に達する手段でしかないのかという点について。あるいは、固有に見いだされる個々の仕事とそれに対する個人との関係。もしくは職人的な仕事。簡潔に言えば、いま現に触れている仕事に対する愛着と思い。これらの「仕事」、あるいは仕事との関わりは多能工の下でどうなるのかという点について考えざるをえない。なぜなら、多能工という概念、あるいはその実施の下では、このような職人的な仕事との関わりは消滅するからである。それは、次のことを意味する。
つまり、個々の仕事との関係にかわって、会社の目的との関係が個人を動かす事。そして、様々な文脈としての「仕事」が、統合的な目的に集約されること。いわば、「仕事」が消滅して、会社の目的の為の手段が形骸として残ること。個人と仕事が分離され、それを会社が補完すること。つまり、形骸化(あるいは機械化)した手段(生産手段、労働力、つまり私達そのもの)と「仕事」との分離を会社が補完するということ。
そして、それが自明化されるのであれば、人々がそれを無条件に受け入れるのであれば、それはほとんど全体主義ではないか、ということである。
しかし、このような仕事を、あるいは個々の仕事との関わりを積極的に見いだせば、たちまちそのような仕事は会社にとっての手段として、積極的に利用されるかもしれない。
だが、現実にはそのような仕事はすでに失われているのではないか。もし、そうであるなら、多能工は批判を導く一つの契機にすぎない。言うまでもなく、それは現代の労働に対する批判を顕在化させるものである。
わが国の社会保障制度は会社保障制度であり、企業は弱者を無条件に統合する強制力を有している。このことは、しばしば企業の可能性や寛容性として積極的な文脈の上で語られるが、基本的にそのような文脈はこの制度が全体主義に直結することを忘れているか、無視している。