改善・改革を阻害する3つの関所

改善・改革を阻害する人間の特性として3つの関所がある。「文化の関」「認識の関」「感情の関」である。人間には本来、自由な思考を自ら妨げ、改善・改革を阻害する特性が備わっている。この特性を知ることで、柔軟なアイデアを発想する糸口を探ってみたい。

1. 「文化の関」

「文化の関」とは、生まれ育った環境、文化、習慣、価値観などの枠が、柔軟なアイデアの発想を妨げることをいう。次の事例を読んで考えてもらいたい。

道からは陽炎が立ち昇るほど暑い夏の日のこと。急な上り坂を1人の青年と1人の老人が、汗だくになりながらシャツ1枚の姿で重いリヤカーを引いている。青年と老人は親子である。しかし、老人は父親ではないと言う。2人の関係は一体どんな関係であろうか。

上の事例を分析してみよう。

(2人=親子)+(老人≠父親)=2人は親子であって、老人は父親ではない。

つまり、母親と、息子が2人の関係である。しかし、この話を聞いた時、瞬時に2人の関係を息子と母親であると見抜ける人は少ない。なぜなら、私たちには、夏の暑い日の重労働は男の仕事であるという、固定観念で枠にはめてしまう習性があるからである。

このような習性から自由になるためには、事実を正確に把握する努力を行なう必要がある。上の事例でいえば、青年と老人それぞれと対話することが重要と言える。対話を通して、「枠にはめたい」という固定観念を払拭し、事実を正確に把握することが可能となる。

2. 「認識の関」

次に、「認識の関」について考えてみる。「認識の関」とは、普段、何気なく毎日目にしているものでも、実際には良く認識されていない、という人間の特性を指すものである。 

例えば、毎日目にしている腕時計の絵を、その時計を見ずに描いてみる。おそらく、大多数の人は、文字盤の種類など、正確に描写することが難しいはずである。極端な例では、アナログの時計をデジタル時計で描写する人も出てくる。

このように、普段、頻繁に目にしているものでも、実は良く目にしていない、良く認識していない、という特性が人間には備わっている。

「認識の関」を克服し、柔軟なアイデアを発想するためには「よく見る」ということが何よりも大切となる。そのための補助ツールとして、チェックリスト等を用意し、周囲の状況に惑わされることなく、正確な情報を見るような努力を行うことが重要である。

3. 「感情の関」

3つ目の関所は、「感情の関」である。「感情の関」とは、間違いをおかしたら笑われてしまう、新しいことに挑戦するのは怖い等の感情が、柔軟なアイデアの発想を拒んでしまうことである。例えば次のような方法で「感情の関」を見ることが出来る。

最初に白紙の紙に適当な大きさの円をかいてもらい、その後に、目を閉じた状態で、最初に描いた円をなぞってもらう。すると、大多数の人は次のような円を描くことになる。

ここで注目すべきことは、目を閉じてなぞった円が、最初に描いた円よりも小さく描写される傾向がある、ということだ。目を閉じた先が見えない状況では、多くの人が慎重にならざるを得ない。同じことが結果の見えない新しいことに挑戦する際にも言える。

「感情の関」を克服するためには、先行きの見えない状況を、可能な限り推測可能な状況にすることである。そのために物事を計画立てて進めることや、他人の意見を受け入れるルールを設定することなどが効果的となる。

4. 改善・改革を実現するために

ここまで見てきたように、人間には本来的に3つの関所が備わっており、それらは、新しい発想や、これまでとは違う新たな環境を受け入れる際の阻害要因になる。これらの関所を克服し、柔軟なアイデアの発想による改善・改革を実現するためにはどうすれば良いか。例えば、アイデア発想技法のひとつであるブレーン・ストーミング法では、批判厳禁、自由奔放、アイデアの質より量を、アイデアの改善結合という4つのルールを設定し、関所を克服しようとしている。

関所克服のために、こういったアイデア発想技法を用いることは有効である。ただ、アイデア発想技法に頼らずとも、柔軟なアイデアを発想することは可能である。それは、多くの人との間で「良く話す」「良く見る」「良く聞く」ということだ。

「文化の関」は個々人の育った環境、文化、時代背景などが固定観念として新たな発想を拒む、というものである。それは、自分とは異なる価値観を持つ者との間で「良く話す」ことにより克服ができる。

「認識の関」は、周囲の状況に惑わされて問題の存在に気づかない、自分の作った条件に縛られ問題を誤って捉えてしまう、というものである。これは、多くの人の視点で「良く見る」ということで克服ができる。

「感情の関」は、先が見えない状況において新しいことに挑戦する不安や、自分のアイデアが他人にどう評価されるか分からない不安によって生じるものである。これは、多くの人の話を「良く聞く」ことによって克服ができる。

ひとりで考え思い悩んでいたことが、誰かに相談したら簡単に解決した、ということはよくある話である。人間にはアイデアを拒む特性とともに、アイデアを発想する能力が必ず備わっている。個々人の有する考え方や、その他の様々な差異は、それらが融合することで多様なアイデアを生み出すことを可能とする。

希望のないところには、絶望がないように、不自由のないところには自由もない。3つの関所とは、いわば思考の不自由さの根拠である。それは、不自由な思考の根拠であるがゆえに、自由な思考を可能とする根拠となる。私たちは、自分の中に存在する3つの関所を意識することで、その関所を超えるイメージを持つことが出来る。誰もが思考の不自由さを持つが故に、誰もが自由な思考の可能性を有しているとも言えるのである。(2009)

多能工に関するノート

一つの目的に達する為の手段は一通りではない。会社あるいは社会の中では、それは分業と協業という形で行われている。それと同時に、ある一つの事をいうためには、それを述べるために様々な文脈を想定することができる。というよりも、そのような様々な文脈、あるいは「分業」と「協業」の中にこそ「生」があるのではないか。現実に、個々人の労働は単なる目的や手段に還元できない(あるいはそれらを同時に内包する)行為である。つまり生・活そのものである。会社にとっての目的がいかなるものであれ、そこに携わる従業員にとっての仕事というものは、本来的に分業と協業の中にあるのではないのか。それがあたかも、会社の目的そのものが仕事であるというふうに捉える現実は本末転倒しているのではないのか。そもそもそのような一つの目的を措定すること自体が本末転倒ではないのか。
 多能工について考えるとき、私はひとり一人にとっての、いや、直接に私にとっての仕事とは何なのか。その拠り所は何なのかという事について考えている。つまり、いま現に私が携わっている仕事とは、何かの目的に達する手段でしかないのかという点について。あるいは、固有に見いだされる個々の仕事とそれに対する個人との関係。もしくは職人的な仕事。簡潔に言えば、いま現に触れている仕事に対する愛着と思い。これらの「仕事」、あるいは仕事との関わりは多能工の下でどうなるのかという点について考えざるをえない。なぜなら、多能工という概念、あるいはその実施の下では、このような職人的な仕事との関わりは消滅するからである。それは、次のことを意味する。
 つまり、個々の仕事との関係にかわって、会社の目的との関係が個人を動かす事。そして、様々な文脈としての「仕事」が、統合的な目的に集約されること。いわば、「仕事」が消滅して、会社の目的の為の手段が形骸として残ること。個人と仕事が分離され、それを会社が補完すること。つまり、形骸化(あるいは機械化)した手段(生産手段、労働力、つまり私達そのもの)と「仕事」との分離を会社が補完するということ。
 そして、それが自明化されるのであれば、人々がそれを無条件に受け入れるのであれば、それはほとんど全体主義ではないか、ということである。
 しかし、このような仕事を、あるいは個々の仕事との関わりを積極的に見いだせば、たちまちそのような仕事は会社にとっての手段として、積極的に利用されるかもしれない。
 だが、現実にはそのような仕事はすでに失われているのではないか。もし、そうであるなら、多能工は批判を導く一つの契機にすぎない。言うまでもなく、それは現代の労働に対する批判を顕在化させるものである。
 わが国の社会保障制度は会社保障制度であり、企業は弱者を無条件に統合する強制力を有している。このことは、しばしば企業の可能性や寛容性として積極的な文脈の上で語られるが、基本的にそのような文脈はこの制度が全体主義に直結することを忘れているか、無視している。