私はこの散文を誰かに向けて書いている。ただし、私にはその誰かが分からない。
先の内省を読むと、これらの散文は誰かしら若い人に書いているような印象を受ける。しかしながら、私はこの散文を若い人に限らず読んで貰いたいと考えている。同時に私は、この散文がまさに自分自身に向けて書かれているような印象を受ける。なぜならこの散文はその題名が意味するように、単に自身の内省にすぎないからだ。これらの内省たる散文の真実は私に対する自己批判である。
私は腹黒い人間である。同時に嘘つきでもある。だがそれが何だと言えるだろう。たとえ私の腹が黒いと言え、その言動に虚言を散りばめると言え、他人から見える私の行動や言葉や作法が善行であれば、私は善行なのだ。なぜなら、私とは、私を含む誰かによって対面する私でしか存在しえないからだ。私とは、私を含む他者から見た私がすべてであり、それ以外の自己はあり得ない。
例えば多くの精神疾患は障害ではない。病ですらない。いや、たとえ障害である精神疾患を含めるとしても、それはすなわち一つの臓器の一部である脳の疾患に過ぎない。脳自体は特権的な臓器ではない。今日は胃の調子が悪いというように、今日は脳の調子が少し悪いと言い得るのだ。そして、体中の筋肉と臓器が疲労するように、脳もまた疲労する臓器の一つに過ぎない。その時、ゆっくりと眠りなさい、という声が聞こえるだろう。