論理的に等号記号は対象に対する限定作用を、不等号記号は非限定作用をもっている。前者は閉鎖的であり、後者は開放的である。一般に不等号を多用した文章がその否定にもかかわらず、読み手を解放するかのように感じさせるのはそのためである。事実それは受け手を解放する。(たとえば、老子を想起せよ)。
等号記号に反して不等号記号は無限に連なって記述する事が可能である。しかし、その場合は対象が欠けているか、もしくは対象と送り手が同一化している。つまり、不等号記号は無限に連なる記述の中においても、なに一つとして自己の立場を限定するものを生み出さない。それは常に逃げ道をもっている。責任を回避する回路をもっている。そして、最後にそのような論理は、不等号を繰り返すこと、つまり非限定を徹底する事が一つの立場を形成するかのような決して負けることのない「不敗の論理」にたどりつく。
それは決着を先送りして絶え間ない運動を積極化する。しかし、現実の運動とは限定の集合であり、最終的に行くか退くかしかない世界である。それは絶えづ関係者に決着を要請するのであって、「不敗の論理」がそこを通過することはない。なぜあなたは好きな人に告白できないのだろう。または、しないのだろう。
これと同じことは、等号記号に関しても言える。だが、不等号記号が一つの非限定によってそれ以外の全ての限定作用を混乱させることが可能であるのに対して、等号記号は一つの等号によって一つの限定しか生み出すことができない。また、論理の矛盾を越えて無限に連なる限定を繰り返せば、単に送り手は嘘つきと罵られるか、無視されるだろう。それは決して、威厳さえもった「不敗の論理」に行き着くことはない。行き着く前に負けるからだ。
だが、ここが肝心なのだが、このような「不敗の論理」とは別に、本当に相手を非限定化してしまう不等号記号がある。それは他のものを非限定化することによってそれ以外の全てのものを解放するのではなくて、真に相手を不等号化する。これは、限定的な現実に対する立場であり、またそのような現実のなかでしか機能しえない立場である。そして、これと同時に対象を解放する等号記号が必ずある。それを愛や希望といってもよい。だが、それは単簡であるがゆえに至難である。