失われた距離を求めて


KONICA HEXAR : KONICA CENTURIA 400

情報というものは残酷なもので、それが人の運命の領域を広げるとともに、狭めもするのだった。この世界にまだ限界というものがあり、生きとし生きるものが死ねば遥かに広がる地の果ての光彩に溶け込んでいき、あるいは天上の光の中に包み込まれていくという世界があり、自分たちの外の世界に住む人々の観念も釈然としなかった時代においては、確かにこの私を取り巻く世界は一つであったのかもしれなかった。今でも世界は多くの世界として存在しているが、この1世紀に起こった通信技術と交通技術の革新は、世界をあたかも別の意味で一つであるかのような状況においやっている。あるいは高度な通信技術と交通技術を所有しうるものたちに一つである世界を見させている。そのような視点から見るならば、事実世界は一つだった。地球の軌道を一つの恒星のように回り続ける衛星は、この地球上のあらゆる地点を網羅し、把握する。私がその衛星と交信可能な機器を有して世界中を移動すれば、衛星は私を捕捉できる。電話回線の整備された彼の地に赴けばその回線を通じて世界中の情報に触れ得る。しかしながら、どのように衛星や通信網が地球上のあらゆる地点に存在する私を捕捉できたとしても、私が歩を進められる範囲は当然のごとくに限られたものなのである。この地に、いまだ前人未到の地があるならば、果たしてそれは人類のものなのか、諸個人のものなのか判別しかねる。
人と人、あるいはものとものとの交信を可能にしているものが、五感によって可能となっているとされているならば、あらゆる交信を司る諸要素は分析され、やがて現実に触れ得ないものに、触れ得る世界が来るのかもしれなかった。例えば遠く離れた肉親と手を取り合って喜んだり、遠く離れた恋人と口付けを交わしたり、といった具合に。
あるものはここで、手を取り合って喜ぶ親子の手にグローブが嵌められていたり、口付けを交わす恋人たちの顔にマスクが掛けられている、といった状況を想起するかもしれない。けれども現在より脳の作用の研究が進めば、身体的、あるいは心的な感覚のすべてが脳内作用から演繹される状況も考えられる。そうなったとき、人は重々しい機器から解放され、簡易な機器を身につけ、あるいはそのような作用を生起させる薬を用いて、遠く離れたもの達と肌を触れ合わせたり、息を吹き掛け合ったりして交感をするのかもしれなかった。けれども確かなことは事実はそうなりえないということである。(1999)