My hometown is a life.

I have roots. but I have no root.

Because we didn’t have family name long long time.

My ancients thought our family name is Amida.

I really don’t know why how come our family name is making.

My nationality is Japanese, but my high school friends called me Korean name with kidding. It doesn’t matter, anyway, I didn’t like my first name. So, I would like to name my child for my favorite name “haruhisa” that is meaning rite of spring.

But we don’t have child.

I have married.

But I’m single.

I have wife. So, I love wife, Hisako. But I’m single.

I’m singularity talking and walk. Because Spirit is not Blood.

It doesn’t like a ball and chain. Like the spider net and the line that is drawn by Jumping Bird.

So, I must make family.

Frankly speaking, I’m wondering. So, I’m just writing. I’ve been writing the Nobel, Criticism, Poem, and Music from 14years old.

I love Taiwan. because that woman is there. I loved her.

I love Korea. because that woman is there. I loved her.

I love China. because my old friend is there.

I love Thailand because my old friend is there.

I love Cuba because my old friend is there.

I love France because my old friend is there.

We met at LSU, Louisiana in 1990.

I love U.S. because my brother Lee and teacher are there. I respect for him.

I love Myanmar. because my friend is coming from there.

I love Vietnam because my lovely customer’s home is there.

I love Switzerland. because lovely Mazda roadster, that my parent saw at there.

I so love Brazil. Because Betty and our many friends are there.

So, I love Japan, a lot of life is here.

So, I love space. because my many dear dead lives are there.

In anyway, I like hip. So, I am hippy.

Thanks a lot for your reading.

発端

僕の発端は素朴なものだった。それはおそらく誰でもが感じたことがあるほどの素朴なものだ。素朴な南北問題、素朴な差別問題、素朴な差別、言葉を含めたあらゆる手に取れる形で目の前にある問題だ。彼は資本主義を勉強した。その発端は素朴な南北の格差であり、決して揺るがない安定性を築いた資本の構造の問題だった。けれども今彼の目の前に広がっている研究という名の学問は、高尚な理論と自律性に支えられて奇妙な島国の中で、あるいは社会学者の前方が言うところの島宇宙の中でいっこうに変わらない現実を賢明に説明するにとどまっている。阿呆な批評家や馬鹿な作家があの絶望の貧困と飢餓と抑圧の中からやがて世界に希有の詩人を生み出すという。だがそれがいったいなんだ。この国の端々でこれまた希有な一つの世界がこじ開けられたとしてそれが一体なんだ。若者は島宇宙とかいう概念に説明され、それが肯定的に解釈されたとして、現にこの私の生活を支えている、衣服や食物や住居やこの言葉が、本当に素朴で透明な貝殻のようにぼくを包んでいる世界的な情況と切り放されてなおかつ島宇宙に生存しているか。皆、またいったんは引き寄せて間近に見えるかと思った怪物の姿から神妙に後退して、高い高い塔の上にあがり、町の明かりの明滅を見て感傷に胸を痛めようとしている。ジイはまた塔に昇りそこで生きる。詩を紡ぐ。それを嫌うものたちは直感に過去の意匠の理論をまとって、別の塔の上で決して自分の歩調を乱すことない闘争を演じる。それをまた、一つの生でないと言えないし、どのような言葉によっても批判し得ない。しかし、情況は滝の水のように落下していき、僕の歩調は乱れざるをえない。僕は簡単にやっつけられる。主体や、自由意志を攻撃できるように、理想や世界革命を攻撃できるように。けれどもあの高い塔の上にいる人たちは、まさにその塔を支えている大地に起こっている個々の生を嘗めている。
 人はなぜ、希有な文学の誕生を期待するのか、人はなぜ文学を恐れるのか。なぜ人は希有な政治の誕生を期待するのか、なぜ政治を恐れるのか。
 僕はグローバリズムや理想について一切語らないが、僕につながる世界についてその問題の端々に浮き上がる素朴な問題を解決していくことは出来る。

失われた距離を求めて


KONICA HEXAR : KONICA CENTURIA 400

情報というものは残酷なもので、それが人の運命の領域を広げるとともに、狭めもするのだった。この世界にまだ限界というものがあり、生きとし生きるものが死ねば遥かに広がる地の果ての光彩に溶け込んでいき、あるいは天上の光の中に包み込まれていくという世界があり、自分たちの外の世界に住む人々の観念も釈然としなかった時代においては、確かにこの私を取り巻く世界は一つであったのかもしれなかった。今でも世界は多くの世界として存在しているが、この1世紀に起こった通信技術と交通技術の革新は、世界をあたかも別の意味で一つであるかのような状況においやっている。あるいは高度な通信技術と交通技術を所有しうるものたちに一つである世界を見させている。そのような視点から見るならば、事実世界は一つだった。地球の軌道を一つの恒星のように回り続ける衛星は、この地球上のあらゆる地点を網羅し、把握する。私がその衛星と交信可能な機器を有して世界中を移動すれば、衛星は私を捕捉できる。電話回線の整備された彼の地に赴けばその回線を通じて世界中の情報に触れ得る。しかしながら、どのように衛星や通信網が地球上のあらゆる地点に存在する私を捕捉できたとしても、私が歩を進められる範囲は当然のごとくに限られたものなのである。この地に、いまだ前人未到の地があるならば、果たしてそれは人類のものなのか、諸個人のものなのか判別しかねる。
人と人、あるいはものとものとの交信を可能にしているものが、五感によって可能となっているとされているならば、あらゆる交信を司る諸要素は分析され、やがて現実に触れ得ないものに、触れ得る世界が来るのかもしれなかった。例えば遠く離れた肉親と手を取り合って喜んだり、遠く離れた恋人と口付けを交わしたり、といった具合に。
あるものはここで、手を取り合って喜ぶ親子の手にグローブが嵌められていたり、口付けを交わす恋人たちの顔にマスクが掛けられている、といった状況を想起するかもしれない。けれども現在より脳の作用の研究が進めば、身体的、あるいは心的な感覚のすべてが脳内作用から演繹される状況も考えられる。そうなったとき、人は重々しい機器から解放され、簡易な機器を身につけ、あるいはそのような作用を生起させる薬を用いて、遠く離れたもの達と肌を触れ合わせたり、息を吹き掛け合ったりして交感をするのかもしれなかった。けれども確かなことは事実はそうなりえないということである。(1999)