政治とは何か?

私はアナーキストである。したがって、政治には選挙を通じて参画するに過ぎない。今、私は、政治について一切語らない。だが、見ている。以下は、平成31年(2019年)1月29日の産経新聞に掲載された安倍首相の施政方針演説(全文)の転載である。私は、この演説を読まずに語られる一切の政治、対峙せずに語られる一切の政治批判に興味がない。

一 はじめに

平成最後の施政方針演説を、ここに申し述べます。

本年4月30日、天皇陛下がご退位され、皇太子殿下が翌5月1日にご即位されます。国民こぞって寿ぐことができるよう、万全の準備を進めてまいります。

「内平らかに外なる、地平らかに天成る。」

大きな自然災害が相次いだ平成の時代。被災地の現場には必ず、天皇、皇后両陛下のお姿がありました。

阪神・淡路大震災で全焼した神戸市長田の商店街では、皇后陛下が焼け跡に献花された水仙が、復興のシンボルとして、いまなお、地域の人々の記憶に刻まれています。

商店街の皆さんは、復興への強い決意とともに、震災後すぐに仮設店舗で営業を再開。全国から集まった延べ200万人を超えるボランティアも復興の大きな力となりました。かつて水仙が置かれた場所は今、公園に生まれ変わり、子供たちの笑顔であふれています。

東日本大震災の直後、仙台市の避難所を訪れた皇后陛下に、1人の女性が花束を手渡しました。津波によって大きな被害を受けた自宅の庭で、たくましく咲いていた水仙を手に、その女性はこう語ったそうです。

「この水仙のように、私たちも頑張ります」

東北の被災地でも、地元の皆さんの情熱によって、復興は一歩一歩着実に進んでいます。平成は、日本人の底力と、人々の絆がどれほどまでにパワーを持つか、そのことを示した時代でもありました。

「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」

今日の内省

私はこの散文を誰かに向けて書いている。ただし、私にはその誰かが分からない。

先の内省を読むと、これらの散文は誰かしら若い人に書いているような印象を受ける。しかしながら、私はこの散文を若い人に限らず読んで貰いたいと考えている。同時に私は、この散文がまさに自分自身に向けて書かれているような印象を受ける。なぜならこの散文はその題名が意味するように、単に自身の内省にすぎないからだ。これらの内省たる散文の真実は私に対する自己批判である。

私は腹黒い人間である。同時に嘘つきでもある。だがそれが何だと言えるだろう。たとえ私の腹が黒いと言え、その言動に虚言を散りばめると言え、他人から見える私の行動や言葉や作法が善行であれば、私は善行なのだ。なぜなら、私とは、私を含む誰かによって対面する私でしか存在しえないからだ。私とは、私を含む他者から見た私がすべてであり、それ以外の自己はあり得ない。

例えば多くの精神疾患は障害ではない。病ですらない。いや、たとえ障害である精神疾患を含めるとしても、それはすなわち一つの臓器の一部である脳の疾患に過ぎない。脳自体は特権的な臓器ではない。今日は胃の調子が悪いというように、今日は脳の調子が少し悪いと言い得るのだ。そして、体中の筋肉と臓器が疲労するように、脳もまた疲労する臓器の一つに過ぎない。その時、ゆっくりと眠りなさい、という声が聞こえるだろう。

日本国憲法前文と9条及び自衛隊に関する内省

現在の日本国憲法はアメリカによって押し付けられたものであり、この国の独自の憲法ではないという世論が大半となってきている印象を受ける。しかるに自衛隊について考えるとき、自衛隊もまた、アメリカの意向により組織されたものであることが忘れられているか意図的に隠蔽されている印象を受けざるを得ない。現在の日本国憲法が外来のものであれ、また、自衛隊が外来のものであれ、私たちがこの戦後の歴史の中で双方を受容してきたものであることには何人たりとも異論はないであろう。あたかもそれらは、私にかつての神仏習合を想起させる。

私は、幼少のころに日本国憲法前文と第9条を読んだ時の感動を決して拭い去ることが出来ない。そこに書かれている徹底非暴力の闘争は、マハトマ・ガンジーがそうした闘いを続けたように、どんなになぶり倒されようとも丸腰で立ち上がる無抵抗による闘争を思い起こさせる。現在の自衛隊を受容してきた先人の知恵は、同時に現行の憲法を受容してきた先人の意思でもある。このことは、アメリカによる日本支配とは全く別の問題である。私の考えでは、日本国憲法は外来であるが、それとは関係なくすでにわれわれが受容し育んだ独自の憲法に他ならない、というものである。